大化の改新とはなんだったのか?日本史を数ページにまとめてみた【要約日本史 Day 2】

天智天皇中大兄皇子)の時代

天智天皇中大兄皇子大化の改新

権勢を誇った蘇我氏ですが、その時代にも終わりが訪れます。

645年 大化の改新

大化の改新の内容(改新の詔)

  1. 中大兄皇子中臣鎌足蘇我入鹿を滅ぼす
  2. 大化→日本最初の元号
  3. 公地公民制 :豪族の私有地をすべて国有地にして一括管理。豪族の連合から、統一国家へ。

中大兄皇子が他にやったことは、

  1. 都を近江に移し(次の天武天皇になるとすぐに飛鳥に戻る)
  2. 668年に即位して、天智天皇になり
  3. 670年に日本最初の戸籍 庚午年籍を作成


天智天皇の次の天皇は弟の大海人皇子(後の天武天皇)と決まっていましたが、天智天皇は子供の大友皇子天皇にするため皇太子にしてしまいました。これがもとで、天智天皇の死後、二人の間で戦争がおこり、結果弟の大海人皇子が勝利しました。
これが、

672年 壬申の乱

です。

天武天皇大海人皇子)の時代

天武天皇律令制(中央集権制)がついに完成!

  1. 672年の壬申の乱をへて即位した天武天皇は、強大な権力
  2. 684年 八色の姓 →豪族の階級を天皇を中心として編成しなおす
  3. 富本銭 →原始的な物々交換をやめてちゃんとした経済を!
  4. 律令国史の編纂を開始
  5. 藤原京(奈良)の造営を開始(天武天皇のあと皇后の持統天皇が遷都(694年))

その後、①刑部親王、②藤原不比等によって

701年 大宝律令

がついに完成!(718年に制定された養老律令も、内容はほとんど同じ)

大宝律令のなかみ

  1. 政権の仕組み
  2. 民衆=農民の土地制度(班田収授法)
  3. 民衆=農民の税制度(租・調・傭)

大宝律令の重要なところは班田収授法
6歳以上の男女に田(女子は男子の2/3)が与えられ、田の面積に比例して収穫の3パーセントほどを納めさせた。

 

飛鳥時代大宝律令(701年)で終わり!このあとすぐに藤原京から平城京(奈良)に遷都(710年)して、ここから平安京(京都)遷都(794年)までが、⑤奈良時代となる。

 

邪馬台国とヤマト政権は同じものだったのか【要約日本史 Day 1 】

日本史は古代、中世、近世、近現代の4つに大別されますが、今回は古代、つまり縄文から平安までのおおまかな歴史を見ていきたいと思います!
縄文時代の始まりは紀元前14000年、平安時代の終わりは1185年ですから、およそ15000年分の歴史を1ページで勉強することになります笑
とはいえ、縄文時代から古墳時代までの歴史は学者にもほとんど何もわかってないのが実情ですから、勉強する内容はほとんどありません。日本史と言えるような歴史は④飛鳥時代から始まっていると思ってください。


①縄文→②弥生(小国分立)→(邪馬台国?)→(ヤマト政権?③古墳時代)④飛鳥→⑤奈良→⑥平安

縄文時代から②弥生時代

縄文時代は狩猟、弥生時代は農耕です。

これだけ押さえておけば縄文、弥生は十分です。紀元前4世紀ごろに弥生人と呼ばれるひとびとが日本列島に農耕技術を伝えました。


農耕=(1)国の形成(2)戦争です。
農耕は共同作業であり、暦の知識や経験に基づくノウハウを持った人間がトップに立ち多くの人間をまとめる縦割り社会が形成されます。こうした小さな集団が蓄えられた穀物や、土地をめぐって争い、勝った側が負けた側を取り込み、それを繰り返していく間にやがて「クニ」と呼ばれる大規模な集団が形成されるのです。

 

小国分立、邪馬台国

この時代のことは正直よくわかっていません!

弥生時代の終わりごろには、「クニ」と呼ばれる小国がいくつも分立しており、やがてそれをまとめた大きな国家があらわれたとされています。それがあの女王卑弥呼邪馬台国であるとされています。

  1. これの根拠はたった一冊の中国の歴史書三国志』の一編「魏志倭人伝」です。現存する日本最古の歴史書は、古事記(712年)ですから、邪馬台国のころ(200年台 )の時代について知るには中国の歴史書をあたるほかありません。卑弥呼の死後、壱与(いよ)(台与(とよ)?)と呼ばれる女王が266年に魏に変わった晋に使いを送ったという記述を最後に、日本(倭国)についての記載は歴史書から消えています。
  2. 邪馬台国の場所については、魏志倭人伝に記述があるのですが、それの通りに地図を追うと、南の海の上になってしまうのです。では距離が間違っているのではないか?という考えと、方向が間違っているのではないか?という説に別れ、近畿説と、九州説の2つがあるそうです。
  3. 「邪馬台(ヤマタイ)」は「ヤマト」に似ていますが、邪馬台国とヤマト政権は同じものなのか、それともヤマト政権が邪馬台国を併合したのか、それもわかっていません。結局ほとんどなにもわかっていません笑

このころについての日本の歴史は断片的にしか分かっていませんから、なぜおれは妙に卑弥呼だけ覚えているんだ?となるのは仕方ないのです。

 

③古墳、ヤマト政権

古墳=ヤマト政権です。ほとんど記録に残っていない謎の多い時代です。(270年くらいから600年くらい)この時代もほとんど勉強することがないです。

  1. 古墳は250年くらいにはじまり600年くらいに終わりました。
  2. 東北地方まで古墳がみられることから、ヤマト政権は日本を広範囲支配していたことがわかります。

古墳が終わったころに仏教が伝来します。そしてこのころ中国は隋という大国が平定し、『隋書』という歴史書が記されます。ここから突然、日本という国の歴史が明らかになってくるのです。


飛鳥時代

飛鳥時代=仏教です。

飛鳥時代

蘇我馬子の時代→②天智天皇の時代→③天武天皇の時代

と三人の人物で区切って覚えてください。

飛鳥時代のミッションは、

1. 仏教
2. 律令制(中国にならった体系的な統治体制を整え、一人前の国家になる!)

の2つです。中国の隋という大国を意識して、日本も一大国家として恥ないちゃんとした国にならなければならない!というのが飛鳥時代のテーマです。


600年ごろヤマト政権の都=奈良の飛鳥にありました。

 

蘇我馬子の時代=仏教による国家体制

仏教を取り入れるか否か?
蘇我馬子(仏教派)(日本史で最初に習う苗字のある人物かも?唐突にでてきますよね)と物部守屋(仏教反対派)という2つの豪族が争い、蘇我氏が勝利します。

蘇我馬子は、

  1. 物部氏を滅ぼし
  2. 崇峻天皇を暗殺して推古天皇を即位させ
  3. 厩戸王聖徳太子)と協力して新しい国家組織を形成。

蘇我馬子の政策

  1. 冠位十二階
  2. 憲法十七条
  3. 遣隋使(小野妹子)の派遣→隋の煬帝(2代目)に中国に臣属しない対等な国として手紙を送り、煬帝に無礼と激怒されるも小野妹子は無事に帰還(当時朝鮮情勢の不安もあって、日本と関係を悪くしたくなかった)。小野妹子によれば返書を受け取ったものの帰途の途中海賊に奪われたというが、恐らく返書はもらえていなかったのではないかとおもわれる。

飛鳥文化=蘇我馬子の文化=仏教文化=仏像&寺です。

 

今回はここまで!次回は天智天皇の時代から始めていきます!